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大阪府立春日丘高等学校
昭和47年卒・学年同窓

木村瑞夫君のこと


論攷(ろんこう)中島敦

■同窓生専用「藤棚ノート」はこちらです。

春日丘高校昭和47年卒学年同窓を成功させる会

木村瑞夫君のこと

 木村瑞夫君のこと/岩崎(白根)

今回連絡の取れないクラスメートが結構いるということで、

一番気になる彼の名前をネットで検索してみたら、いきなりamazonで著書をhitした次第です。

「論攷(ろんこう)中島敦」

1953年生れ、大阪出身としかわからず、本を取り寄せました。

写真を見ると、亡くなった46歳の彼は恰幅が良くなっていましたが、

著書の内容や「藤棚クラシック」で満っちゃんと文学論を交わしたというのを見て、

やはり間違いないと思いました。

なぜ気になったかというと、

彼に不愉快な思いをさせたまま卒業したという負の記憶がずっとあったからです。

若気のいたりで、嫌な思いをさせたり、迷惑をかけた人いっぱいいます。

A君、B君、Cさん、Dさん・・・・・・・Zさん。

何十年もたってるので、

できれば全部「時効」ということで許していただきたいと思っています。

3年4組 木村瑞夫君の著作/ 満っちゃん

岩崎(白根)君より贈られた、同窓生、木村瑞夫君の「論攷 中島敦」を読了しました。

カスタマーレビューをそのうちamazonに書きます。

また、お連れ合いの承諾を得られれば、

書中の「木村瑞夫さんのこと」「あとがきに代えて」を機会を見つけてみなさんに紹介したいと考えています。

「論攷 中島敦」は茨木市立図書館に入れてもらうよう、

明日予約しに行きたいと思います。




Re: 元2年5組木村瑞夫君の著作/ 岩崎(白根)

やっぱり満っちゃんに読んでもろてよかった。

あたしなんざぁ最初「論攷(ろんこう)」を「ろんかい」って読んだもんね。

中島敦の「名人伝」は教科書にありましたね。

修行の果てに名人の域に達すると、弓矢など不要。

渡り鳥も彼の家を避けて飛ぶ。

最後には弓矢そのものが何の道具かさえ忘れてしまう。

うわさを聞いて画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の弦を断ち・・・・・

カイロプラ・・モデル師に「俺は見ただけで悪い所がわかる。」なんて奴もいますが・・これはご注意!!

電子辞書に「李陵」「山月記」「弟子」「光と風と夢」も入っていて読んでます。

木村瑞夫君の・・・・・・/ 満っちゃん

木村瑞夫君のご遺族から、先ほどご連絡頂きました。

彼が上梓した本の出版社に私への連絡を依頼していたのです。

このHPに書籍の一部「木村瑞夫さんのこと」と「あとがきに代えて」を

載せたいとお願いしましたところ、ご了解を得ることが出来ました。

どちらも含蓄のある内容です。

胸打たれ、小生は目頭が熱くなりました。ぜひ、ご一読ください。

木下君、「論攷 中島敦」読まれたとのこと。

茨木市立図書館に予約したら、大阪府立図書館から「借用」して貸し出してくれました。

茨木市民、在勤の方、大阪府民は借りて読むことが可能なようです。

論文も首肯できる点が多々ありました。

同じなりわいに携わる者として刺激を受けました。

こちらも同窓生に一読をお勧めします。

(ちなみに小生は岩崎〈白根〉君から頂いた物を所有しております)





論攷(ろんこう)中島敦/木村瑞夫
より抜粋

以下、木村瑞夫君のご遺族、出版社の了承を得て転載致します。
写真提供/山本 満

故 木村瑞夫の霊前に捧ぐ/木村瑞夫さんのこと/田辺 祐成

 木村瑞夫さんが癌で亡くなつて三年が過ぎた。四十六歳という若さであった。

 西宮東高等学校在職時代に同僚として親しくお付き合いしたことから

彼の遺稿集への序を書くことになった。

 私の知る高校教師時代の彼は意表をつくギャグを武器にして愉快な授業を展開していた。

泰然と高みにあって自若として飛ばすギャグは、同じギャグでも高尚そうに聞こえたから不思議である。

ために教室は大いに沸きかえり、私などはどうしたらあんな語り口ができるのかとまねを試みたが、

天成のものはまねのしようがなかった。

もう一つまねのできないものにマニアックな鉄道愛好がある。

彼は西宮東高校にやってくると間もなく鉄道研究部なるものを作って顧問におさまった。

ただ、彼の関心の向かうところは機関車とか電車とかの箱者″へではなく、

「時刻表」に象徴される「鉄道の旅」であり、「国鉄全線完全乗破」であった。

「完全乗破」まであとわずかとなつたとき、国鉄が民営化された。

長年愛着を抱いていた日本国有鉄道はなくなって民営鉄道の一つとなり、

目標としてきた対象がなくなったことを彼は嘆いた。

(その後、JRを完全乗破した。)鉄道以外の旅には興味はない。

「時刻表」を手に、いまだ乗車していない路線をたずねて旅した。

途中下車した駅前市場で酒や刺身などを買って持ち込み、

夜行列車をつかっていかに安く旅するかということも鉄道研究のひとつであった。

駅前の縄のれんや赤提灯の店で「各地の味」を堪能するのも「旅」の目的であり、

日常を離れて「旅」のなかでものを考えたり書いたりするのも目的であった。

とにかく暇さえあれば鉄道の旅に出かけた。

月曜日などは旅先からそのまま出勤してくることも多かったほどである。

家庭のことはあまりかえりみず、わがままな子どものように暇を見つけては

家を飛び出して一人で旅していた彼に、

私はうらやましいと思いながらも了としがたい気持ちを抱いていたが、

彼の短く終わつた人生を思うと、それでよかったのだという思いがする。


 木村さんが、中島敦のとりことなったいきさつは知らないが、

恐らくは高校時代に教科書で『山月記』にふれて、

その華麗な漢文体の文章と「臆病な自尊心」と「尊大な蓋恥心」によって破滅した

李徴の悲劇に引きつけられたのであろう。

以来、中島敦研究は彼のライフワークとなり、『山月記』論、『李陵』論などの作品論をつぎつぎと書き、

その論文は権威ある国文学雑誌にしばしば掲載された。

だが、彼はもともと作家を目指していたようである。

早くに少年期への郷愁を措いた『紙芝居屋の話』という習作を書いたが、

学校現場の日常の、多忙に飲み込まれて、その後は創作活動からは遠ざかっていた。

しかし、病床にあって再び物書きへの渇望がつのり、『招き猫』という私小説風の作品を書いた。

(彼は無類の猫好きであった。)

さらには闘病生活に材をとった『異生物』やエッセイなど、水を得たように書きだした。

死を間近にしてからは、「短いであろう(死)への道をどのように歩むか、

換言すればどのように生きるべきであろうか」をテーマにした

『硝子の道』という自分の死を見つめる小説を書き始めだ。

「この文章は完結しないかもしれない」と書き始められており、果たして未完に終わった。


 彼が死を前にして憑かれたように小説を書き始めたのは、もちろん生への執念であるのだが、

同時に「自己存在の永遠化」(「『山月記』論」)を計ったものであったろう。

『山月記』で虎と化した李徴が旧友の衰惨に依頼して、

「他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでゐた。

しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。

曾て作る所の詩数百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。

遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。所で、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。

之を我が為に伝録して戴き度いのだ。何も、之に依つて一人前の詩人面をしたいのではない。

作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執着した所のものを、

一部なりとも後代に伝へないでは、死んでも死に切れないのだ」と「自己存在の永遠化」、

つまり己の生きた証を後世に残そうとしているが、

木村さんも前述の『異生物』や絶筆となった『硝子の道』の中で同様の事を書いている。

「理由も分からずに」虎の姿に変身させられた李徴の心情に、

理不尽に癌におそわれた自分を重ねているように思えるのである。


 この集は論文集であるが、彼の残したすぐれた業績(精神作用)を収めたもので、

これが世に出る運びとなったことは彼の好んで用いた「魂(精神)の永遠化」であり、

あの披岸で大いに喜んでいる彼の顔が日に見えるようである。

                二〇〇三年八月

(本文は、こちらからダウンロードすることができます。→PDF版

■あとがきに代えて/木村有美子

元気だけが取り柄だった主人が結腸腫瘍で他界しまして間もなく三年半になろうとしています。

その間、私は今までに経験したことのないような時間を過ごしました。

時間だけは誰の上にも平等に均等に流れていくものと思っておりましたが、

その重さや速さはそれぞれの感じ方によって随分違うようです。それでも確実に時は流れているらしく、

子供は主人とほぼ同じ背丈になり、私も主人の享年に追いついてしまいました。

元気でおりましたら、今年五十歳になるはずでした。


 主人と出会いましたのは大阪教育大学大学院の近代文学研究室でした。

中学から私学の女子校で過ごした私にとりましては、とにかく不思議な存在でした。

当時の主人は奨学金や塾のアルバイト代の殆どを家に入れ、

自分の学費はパチンコで捻出していたようでした。

パチンコは、他力本願の他のギャンブルと違って、

釘をよむ目とレバーをはじく腕さえあれば確実に勝てるスポーツだというのが主人の持論でした。

中指にはペンだこ、親指にはパチンコだこができた右手を見せては、

「これを文武両道と言う。」などと解説してくれたものですが、

ワープロがそれほど普及しておらずパチンコも手動であった時代ならではのお話、

二十年以上昔のことです。教師を養成する大学にこんな人がいるなんてと驚きながらも、

「文武両道」の主人の右手を私は結構気に入っておりました。


 二年の交際を経て結婚しました時、主人は他の男性方がおっしゃるような甘い約束は一切致しませんでした。

その代わり「いつか本を出すことがあったら、扉に『妻に捧ぐ』と1言入れるから…」と申しました。

お金もなく勿論家もなく、互いの勤務先からも遠く離れた

寝屋川の小さな借家でスタートした無い物づくしの新婚生活が、

それでも幸せに感じられたのは、この一言があったからかもしれません。


 「早咲きの小ぶりな花にはなりたくない。」

「五十歳になったら今まで書いたものを一冊にまとめたい。」

と常々申しておりましたが、癌が主人の夢も家族の日常も全て奪って行ってしまいました。

早くに父親を亡くした主人は私が知らない経済的苦労をしたようですが、

それも持ち前の負けん気と行動力で乗り越えて来ました。

ですが、この病気だけは平生のプラス志向や自努力をもってしても組み伏せることはできませんでした。

主人にとって癌は、中島敦の『牛人」にいう「世界(天) のきびしい悪意」そのものでした。


 主人の無念さを思い、主人が五十歳を迎える今年、

せめてはこれまでの論文だけでも一つにしようと考えたのが本書刊行の動機でした。

が、これは思いのほか難事業でした。

例えば、校正のために用いた『中島敦全集』にさえ、私は平静ではいられませんでした。

手擦れて表紙のクロスも破れるほどに読み込まれた第一巻を手にした時、

「お父さんはここにいた」と、今は手の届かないところにいる主人の存在を強く感じました。

お世辞にも達筆とはいえない書き込みは、まぎれもなく懐かしい主人の字です。

もし今大地震が来て、主人を偲べるものを一つだけ持ち出せるとしたら、

私は位牌やアルバムではなく迷うことなくこの本を選ぶだろうと思うほどでした。

また、主人の論文を読み返すことは、主人の人生を追体験することでもありました。

タカ夫人が『山月記』に中島敦の切なさを感じられたように、厚かましい言い方をお許しいただければ、

主人の志半ばで終わってしまった人生が天折した中島敦に重なり合うようにも思えました。

今主人が中島敦に惹かれずにはいられなかった理由や文字の持つ力のようなものが、

おぼろげながらわかった気がしております。

結局私は主人の論文を冷静に読むことはできませんでした。

行間に見え隠れする主人の姿を探して心を揺さぶられながら、やっとのことで校正を終えました。


 家庭での主人は、私や子供の歩調に合わせて隣を歩いてくれる人ではありませんでした。

どんな時でも自分のペースを崩さず先へ先へと急いで、

私たちはその後ろ姿を早足で追いかけているような毎月でした。

百組の夫婦があれば、その形も百通りあるのでしょう。

けれど一片の尊敬の心もなく、女性が一人の男性のそばに二十年余りもいられるものではありません。

時代錯誤といっていいほどの亭主関白であった主人との生活は、

けっして平坦なばかりではありませんでしたが、

自分の生きてきた証を論文という形で遺してくれた主人に感謝しております。

 さて、本書の内容ですが、冒頭に収めました「志賀直哉と中島敦―その自我についてー」は、

卒論の内容を要約したもので、おそらく主人の論文が活字になった最初のものだと思います。

主人が生きていましたら、未熟な論だと削除したかもしれません。

「研究動向―中島敦」や「中島敦『山月記』指導」も論文集に収めるべきむのではないと

主人なら判断したことでしょう。

また、「中島敦『名人伝』論―精神と形―」は完成稿ではありません。

ワープロに遺されていた本文と原稿用紙の本文の間には若干の違いもありますし、

文脈の通じにくさや論理の飛躍を感じさせる箇所も多いように思います。

が、この論が、「癌かもしれない」という不安、いえ殆ど確信に近いものを抱きながらベッドが空くのを待っていた、

不安定な精神状態の中で書き出されたことを思いますと、

結論を急がざるを得なかった主人の焦りのようなものが感じられて胸が痛みます。

本書には最終稿と思われる本文を採りましたが、本来ならもっと推敲を重ねたことでしょう。

このように考えますと、本書は主人の遺志を反映した論文集とは呼ベそうにもありません。

小冊子になろうとも、主人が自信をもって世に問うた論文だけを厳選すべきだったかもしれません。

敢えてこのような形をとりましたのは、全く私のエゴからです。論文集としての価値よりも、

私は主人の生きてきた足跡をここに遺すことを優先致しました。

論文の配列が発表順となっていますのも同じ理由に拠ります。


 序文に田辺先生が書いて下さったように主人は元々作家志望で、「妻に捧ぐ」と申しました時、

念頭にあった本も論文集ではなかったかもしれません。

が、昭和六十三年を境に論文を発表し始めました。

その端緒となつた「『古譚』六篇説再考」が掲載された「日本近代文学」の発行年月日は、

八年目に漸く授かった子供が誕生した日でもありました。

私は奇縁を感じずにはいられませんでした。しかしながら主人が他界しました時、

子供は小学六年生になったばかりで、社会での父親を知るには幼すぎました。

主人は本書の中で、『古譚』 の四作は「文字」によって、

「古俗」の二作は「血」によって「自己存在(魂)の永遠化」を図ろうとした、

と六作品を貫流するテーマを読み取っておりますが、

主人の文章がその「魂」をどこまで伝えているのか私にはわかりません。

ましてや後々まで読み継がれるなどとは夢にも思いません。

ただ、本書が、主人を知っていて下さった方々に、

木村瑞夫という一教師がいたことを思い出していただく縁(よすが)となり、

子供が父親の生涯を知る道標となつてくれればと願うばかりです。

 思いもかけない病で他界しましたため、

主人はお世話になりました方々に何のご恩返しもできないままでした。

母校大阪教育大学でご指導いただき、私たち夫婦の媒酌もして下さった角田敏郎先生、

学生時代から就職にいたるまでお世話になるばかりでした山根賢吉先生、

大藤幹夫先生、池川敬司先生、神尾暢子先生には一方ならぬご厚情を賜りました。

近代文学会でも多くの先生方のご指導をいただきましたが、

中島敦研究の先達でもおられる濱川勝彦先生、木村一信先生には特にお世話になりました。

非常勤講師として伺いました大阪樟蔭女子大学の先生方や研究室の皆様、

そして何よりも二十年余り勤務させていただいた西宮市立西宮東高等学校の先生方や職員の皆様に、

心よりお礼申し上げたいと存じます。

とりわけ西宮東高等学校の国語科の先生方から主人や私たち家族が頂戴したご厚情は、

言葉では尽くせません。家庭での主人が幸せであったかどうか、

私は自信がありませんが、職場では理解ある方々に囲まれて主人は間違いなく幸せでした。

本当にありがとうございました。

 また、あの苦しい闘病の中で主人が自死を選ばずに済みましたのは、

献身的に治療に当たってくださった病院の先生方や看護士の皆様、

陰で支えてくださったお友達のおかげです。弟夫婦もよくしてくれせした。

この場を借りましてお礼申し上げます。

 今回、主人の五十歳の誕生日に刊行できるようにとご尽力くださいましたのが、

西宮東高等学校でお世話になりました田辺祐成先生です。

主人の全ての論文をパソコンに入力して下さり、序文まで頂戴致しました。

主人が父とも兄とも思って敬慕しておりました先生に最後までお骨折りいただきましたことを、

主人もどんなに喜んでいることでしょう。

先生にはただただ感謝申し上げるばかりです。

 こうして主人の論文を一つの形にまとめることができましたのも、

和泉書院の廣橋研三氏、廣橋和美氏のご尽力があってのことです。

私の不調で大幅に予定が遅れましたお詫びとともに、

衷心よりのお礼を申し上げたいと存じます。

   平成十五年八月

(本文は、こちらからダウンロードすることができます。→PDF版











         
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