■ホテルから九十九折りの急坂を下り、
小雨がぱらつく中、長崎港にやって来ました。
目指すのは念願の世界遺産・軍艦島(端島)。
島に上陸するためには、
5つの船会社が開催している上陸ツアー参加が必須なため、
ガイド付きツアーへに参加し、船に乗ります。
船内放送では波の高さや風の強さで、
市が定める基準を超えると上陸できない旨の説明があります。
さらに軍艦島までの片道約40分の間に、
三菱長崎造船所 第三船渠
等、周辺の世界遺産について解説があります。
■小雨模様で波も少しあったので、
直前まで上陸の可否がわかりませんでした。
係留しても船は1m程上下していましたが、
「社会実験」で上陸条件が緩和されたとかで、
幸運にも上陸することができました。
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右下のゼブラ模様の屋根は四海楼 |
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海底ケーブル敷設船 |
海上自衛隊ステルス護衛艦 |
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女神大橋 |
三菱重工長崎造船所 |
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■軍艦島は長崎港の沖合18.5kmに浮かぶ無人島です。
江戸時代に良質な石炭が発見され、
明治末期から本格的な採掘がスタートしました。
岩礁だった島には護岸が整備され、
埋め立てによって拡張が進みます。
海底の地下1,000mから良質な石炭を採掘し、
製鉄用原料炭として主に八幡製鉄所で使用され、
日本の重工業分野の近代化を支えました。
大正時代以降、鉄筋コンクリート造りの高層アパートなどが建ち並び、
その全景が長崎造船所で作られた「軍艦土佐」に似ていることから
、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
■最盛期には約5300人が住んでいたという軍艦島。
人口密度は当時の東京区部の約9倍という過密ぶりでした。
坑員の給与は公務員の平均給料の1.5〜2倍といわれ、
電化製品の普及も速く、
当時全国普及率が10%ほどのテレビは、
軍艦島では100%普及していました。
小中学校や病院の他、
映画館やパチンコ店といった娯楽施設も揃っていたそうです。
学校にはプールもありました。
■しかし、その後のエネルギー革命により石炭産業は衰退し、
軍艦島は1947(昭和49)年1月に閉山しました。
2015(平成27)年に
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」
の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されました。
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■上陸して目に入ってくるのが、
ベルトコンベアーの跡や小中学校の廃墟と山の上の高層アパート。
ガイドさんの案内で島南部を歩きます。
木造の建物は全く残っておらず、
わずかにレンガの壁が残る「総合事務所」の赤色が目立ちます。
山の上には職員社宅、裾野には鉱員社宅。
北部には小中学校の建物が残ります。
また、ベルトコンベアや竪坑坑口等の採炭関連施設跡も
かすかに面影をとどめています。
■圧巻は第3見学広場から観る鉄筋コンクリート造アパートの「廃墟」。
右に30号棟、左に31号棟が広がり、
窓が口を開けています。
30号棟は日本最古の鉄筋コンクリート造のアパートで、
当初は4階建てでしたが、増築されて7階建てになりました。
人間の飽くなき努力と自然の力の大きさをしみじみと感じました。
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